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9.奥村 賢さん(日本料理 おく村)

  • shibatashoten
  • 2016年7月29日
  • 読了時間: 10分

プロフィール

日本料理 おく村 奥村賢さん

1970年熊本生まれ。100年以上にわたり、料理店を営む家に生まれ、高校卒業後、宮城県での大学生活3年半を経て京都「熊魚菴 たん熊北店」にて約8年間の修業。1999年熊本に戻り、実家が営む「日本料理 おく村」に勤務し、現在に至る。地元テレビ局の推進する「くまもと5ツ星」プロジェクトや、熊本市が指定する肥後野菜の一つである水前寺のりの保全・普及など、熊本の食の豊かさを守り伝える様々な活動にも尽力している。

 

何があっても、

看板を守る。

熊本駅と熊本城の間に位置する、新町・古町地区は熊本市の観光名所の一つ。17世紀初頭、加藤清正が熊本城を築城した際ともにつくった城下町であり、地元の住民は大切に往時の面影を残してきた。しかし熊本地震では、その歴史ゆえに半壊家屋が続出。立地や築年数、構造によって個々の家屋の状況はさまざまではあるが、熊本市内では特に被害の大きな地域の一つとなった。

城のお膝元で刻む

100年以上の歴史

その一角に、熊本城にもっとも近い場所で築城当時は「古城堀端」と呼ばれていた通りがある。新町1丁目。当時は各種の食材、雑貨などを売る商人が集まって毎日のように市がたち、朝早くからにぎわう商業の中心地であったという。

「日本料理 おく村」は、明治の初め、魚屋町で魚の仲買からスタートし、併設の小さな「めし屋 おく村」にはじまる100年以上の歴史を誇る。まさに城のお膝元で、熊本の料亭文化を担ってきた老舗日本料理店だ。華やかなりし頃は、おく村の並びに何軒もの料亭が灯りをともし、夕暮れともなれば家々から三味線や琴の音が響いて芸者衆が行き交う、なんとも色気のある一角だったそう。しかし時代が移るにつれ、料亭はだんだんに減ってマンションや駐車場に変わってきた。

おく村自体も、もとは1000坪におよぶ広大な日本庭園の中に建つ瓦屋根の木造建築だったが、1999年、敷地を100坪に縮小。中庭を備えた鉄筋コンクリート・バリアフリーの3階建てに新築した。これが奏功し、2度の大きな揺れを経験しても建物本体への被害はほとんどなかったと、3代目主人の奥村賢さんは語る。

16年前の話ではありますが、建替えした当時としては最新の耐震対策をしてあったので、店は助かったのかもしれません。もちろん中は、調度品が落ちたり割れたりめちゃくちゃ。14日に一度片付けてしまったのが災いし、16日も相当数の器や調度品が破損しました。文化財的な価値をもつ打毬楽人形の毬杖(ぎっちょう)が折れるなど、だいたい1000万円近い被害を試算しています。また外構も破損して、噴水のように水道水が噴き出していた場所がありましたが、16日の本震後も、とにかく建物本体は無事だったんです。

庭は一部陥没
打毬楽の人形も地震で損壊。

無傷だった座敷を

私設の避難所に

建物の3階に自宅がありますので、とにかくまずは店の様子を確認に。扉を開いて動線を確保し、ガスの元栓を閉めてから外の様子を見に行きました。この辺りには、実はもう古い知人はいません。近くの病院や専門学校で学ぶ学生さんや看護研修生さんの1人暮らしが多いんです。地震の夜は、それらの1人暮らしの女性が続々と出てきて、外に立ち尽くしていました。

それを見たら放っておけない。店の中は大変な状態でしたし、店の建物だって絶対にこの先も大丈夫とは言い切れません。何より、正直、店を開放するというのは勇気のいる決断でしたが、直接の知人でなくとも、古くからこの地で商売をするものとして、地元の困っている人に手を差し伸べたいと考え、「よかったら店にどうぞ」と声をかけました。

わりとガラの悪い風貌なので(笑)、最初は驚いた様子だった皆さんも、話が飲み込めると「お願いします」と。結局この夜、7人ほどの方を受け入れて、1階奥にある20畳の座敷で休んでもらいました。当日は予約も頂いていたので食材もあった。それが、皆さんのまかないになりました。

途中で知人のご家族が増えるなど、最大で20人の方がいらした夜もありました。こうして店を開放したのは10日間ほどでしたが、「こんなにゆっくり眠れて有難かった」と皆さん元気になって自宅に戻って行かれたのが何よりだったと思っています。

支援物資の

授受に奔走

一方で、地震直後は各地の友人たちから支援の申し出があった。食材の仕入れ先である熊本県内の農家、趣味の“車仲間”、大学時代を過ごした東北の仲間など、そのつながりは様々。とりわけ大型トラックを所有する車仲間のフットワークの良さから迅速な支援物資の調達が実現し、いち料理店の域を超えた支援活動がはじまった。

地震当初から、みんな「何かいるものはないか」と聞いてくれました。逐一こたえる余裕はなかったので、「とにかく俺のフェイスブックを見てくれ」と。そして予想される必要な物資を書き綴っていきました。熊本市内への荷物は、宅急便の受付がストップしていたので大牟田の車仲間に物資受け入れのベースになってもらいました。そして、大牟田からは、仲間が趣味で持っている2トントラックで連日配送(笑)。

感動しつつも驚いたのが、皆さんの思いで本当にトラックの荷台がパンパンになって届くんですよね。関東からは2トン2台、石巻から4トントラック2台で、道中支援物資を受け取りながら来てくれた友人もいました。「いやー、こんなに店に置けるかなあ…」と半分不安になるぐらい(笑)。しかし、皆さんが身銭をきって送ってくれた支援物資です。本当に困っている方々、必要な場所に届くように市役所や各避難所に電話をかけまくって状況を聞いていました。並行して、自分のフェイスブックでも私的な電話番号を掲載し、「支援物資があります。必要な方はご連絡を」と呼びかけました。

大型トラックが停車し、荷おろし

とはいえ、個人で何もかもはできません。ある程度行政の目や手が届く指定避難所は大丈夫だから、自分のやるべきことはそこから漏れてしまった方々の支援だと考え、たとえばご高齢の方が多くて避難所まで歩いて行くこともできない団地に水や食糧を届けたり、患者さんを抱えて困っている病院に飲み水を届けました。熊本市内の蔵元「瑞鷹」さんも協力してくれて、酒造用の井戸から湧き水を毎晩ポリタンク30缶分、おく村に運んで配送するということもしていましたね。

途中からは、おく村のお客様方が多いときで10人くらい支援物資の配送や仕分けを手伝ってくれました。「あんたは動かんでいいから指示出して」と言ってもらい、僕はデスクワーク。物資の受け取りと配送がスムーズに運ぶよう、各所と連絡をとり続けました。

“でくるこつば

でくるしこ“

必死に支援を続けるなかで見えてきた、さまざまな課題もあったという。避難者自身の自助努力の必要性。善意に発するネット上のトラブルの怖さ。「経験者だからこそ、伝えるべき」と、奥村さんは、あえてこれらの出来事を臆することなく発信している。

たとえば、どこの避難所でも「困っています」とはおっしゃるけれども、じゃあ「対策本部に状況を伝えて物資を依頼しましたか?」と尋ねると、していないと。被災したからといって、ただ座して助けを待つ必要はない。電話1本でもいい、来てくれた人に一言お礼を言うだけでもいい。「でくるこつば、でくるしこ」(できることを、できるだけ)、動いていこうと僕は言い続けました。

善意が裏目に…

SNSの功罪

一番やりきれなかったのは、SNSでのトラブルです。僕の支援物資配布の呼びかけを見て、電話番号違いでツイートしてしまった方がいて……シェアとかコピー&ペーストではなく、わざわざ自分で書き直して配信してくれたため、全く別の都市に住む個人の携帯電話番号になっていたんです。

僕が事態を知ったのは、間違われた方からお怒りの電話があったから。当たり前ですよね、昼夜を問わず電話がなって「奥村さんですか。物資を送りたいんですが、どうしたらいいですか」と聞かれ続けるわけですから。なんとか調べて発信元に連絡をとり、ご自身のツイートはもちろん、拡散先も余さず調べて消去してくれとお願いし、間違い電話は2日ほどで沈静化しました。

あちらも善意とはいえ、これは本当に困りました。僕も、ただでさえ支援物資の整理と配布で大わらわの時期、辛かったです。間違われた方も、事情がわかって「あなたも被害者なんですね」と許してくださいましたが、僕ら3人、実際にはお会いしたこともないんですよ。これは手痛い教訓となりました。

全国から集まった職人さんたちに炊き出し。

看板を背負い、

再起を誓う

支援活動の一方で、店の営業面は奥村さんいわく「お先真っ暗」の日々が続いた。震災後は予約キャンセルが相次ぎ、ほぼ休業状態。収入が途絶えても光熱費などの出費はかさみ、完全な赤字経営。今後もこのまま店を続けられるのか、悩んだという奥村さん。しかし「看板を守る」という強い思いで立ち上がり、5月5日から営業を再開させた。

料亭というのは気軽に立ち寄れる店ではありません。接待が減り、外食の客単価も年々下がるなか、お客さまの利用機会は相当減っていました。正直、経営は震災前から厳しかったので、地震は店をたたむいい大義名分になったとは思います。実際、並びの料亭が徐々に減り続けるなかでともに踏ん張っていた隣の店も、今回の地震でついに廃業してしまいました。

しかし、老舗の看板というのは望んでも手に入らないものです。先祖代々の積み重ねがあって、今がある。看板の重みを考えたら、このくらいでやめたらだめだと僕は思うんです。たんなる経営、お金儲けだけを考えたら、判断は違ってくるかもしれない。でも、こうした大きな地震があって熊本の街が変わろうとしている今、僕がいちばん大切に思うのは100年続く看板を守ることです。

長い歴史のなかでは、両家の顔合わせからはじまり、結納、披露宴、お宮参り……と必ず家族行事で利用してくださるご家族もいらっしゃいます。老舗というのは、お客さまの記憶も背負っている存在だと思うんです。

今回の地震で受け取ったトラック20トン以上の支援物資は、店への「がんばれ!」というエールでもあると思う。有難いです。震災時も、自分なりに立ち止まらずに動き続けたことで、矜持を保ち続けることができた。家族には迷惑をかけっぱなしですが、ここからもう一度、立ち上がって頑張っていきます。

文化を守り、

伝えるために

“料亭”というと敷居が高いと感じてしまう若い世代の方に少しでも料亭の文化、日本の伝統文化に親しんでいただけたらと、学生さん向けに座敷で「和食マナー講座」を開講したり、おせちで忙しい冬をのぞき、春、夏、秋の三つの季節には、花見や大収穫祭をテーマにイベントも催しています。

イベントでは、「新嘗祭」って何だろうとか、神道に基づく日本の伝統行事のお話をしたりしながら、日本のお酒と料理を楽しんでいただいています。さまざまな祭りの謂れなどを自分が勉強した範囲でお話しすると、ご高齢の方でも、「知らなかった」とおっしゃることもあります。誰かが伝えていかないと、料亭のみならず日本の伝統文化自体が失われてしまう寸前であることを感じるんです。

細やかな季節の移ろいを表現

熊本伝統食材の「水前寺のり」の保全もその一つです。淡水生の藍藻類である水前寺のりは、澄んだ水でしか育たず、絶滅寸前。この食材に養殖段階から関わって、店ではフレッシュを味わっていただくほか、気軽に味わっていただけるよう、そうめんに練り込んだオリジナル商品もつくっています。

形にこだわらず、時代のニーズにこたえ、お客さまにご満足いただく。そのうえで愛する故郷の熊本に伝わる、豊かな食の文化を伝えて行きたい。それが老舗料理店としての責任だと思っています。

取材・文/坂根涼子

 

店舗情報

店舗

日本料理 おく村

熊本市中央区新町1-1-8

TEL: 096-352-8101

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