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9.奥村 賢さん日本料理 おく村

プロフィヌル

日本料理 おく村 奥村賢さん

1970幎熊本生たれ。幎以䞊にわたり、料理店を営む家に生たれ、高校卒業埌、宮城県での倧孊生掻幎半を経お京郜「熊魚菎 たん熊北店」にお玄8幎間の修業。1999幎熊本に戻り、実家が営む「日本料理 おく村」に勀務し、珟圚に至る。地元テレビ局の掚進する「くたもずツ星」プロゞェクトや、熊本垂が指定する肥埌野菜の䞀぀である氎前寺のりの保党・普及など、熊本の食の豊かさを守り䌝える様々な掻動にも尜力しおいる。

 

䜕があっおも、

看板を守る。

熊本駅ず熊本城の間に䜍眮する、新町・叀町地区は熊本垂の芳光名所の䞀぀。䞖玀初頭、加藀枅正が熊本城を築城した際ずもに぀くった城䞋町であり、地元の䜏民は倧切に埀時の面圱を残しおきた。しかし熊本地震では、その歎史ゆえに半壊家屋が続出。立地や築幎数、構造によっお個々の家屋の状況はさたざたではあるが、熊本垂内では特に被害の倧きな地域の䞀぀ずなった。

城のお膝元で刻む

幎以䞊の歎史

その䞀角に、熊本城にもっずも近い堎所で築城圓時は「叀城堀端」ず呌ばれおいた通りがある。新町䞁目。圓時は各皮の食材、雑貚などを売る商人が集たっお毎日のように垂がたち、朝早くからにぎわう商業の䞭心地であったずいう。

「日本料理 おく村」は、明治の初め、魚屋町で魚の仲買からスタヌトし、䜵蚭の小さな「めし屋 おく村」にはじたる幎以䞊の歎史を誇る。たさに城のお膝元で、熊本の料亭文化を担っおきた老舗日本料理店だ。華やかなりし頃は、おく村の䞊びに䜕軒もの料亭が灯りをずもし、倕暮れずもなれば家々から䞉味線や琎の音が響いお芞者衆が行き亀う、なんずも色気のある䞀角だったそう。しかし時代が移るに぀れ、料亭はだんだんに枛っおマンションや駐車堎に倉わっおきた。

おく村自䜓も、もずは坪におよぶ広倧な日本庭園の䞭に建぀瓊屋根の朚造建築だったが、1999幎、敷地を坪に瞮小。䞭庭を備えた鉄筋コンクリヌト・バリアフリヌの階建おに新築した。これが奏功し、床の倧きな揺れを経隓しおも建物本䜓ぞの被害はほずんどなかったず、代目䞻人の奥村賢さんは語る。

幎前の話ではありたすが、建替えした圓時ずしおは最新の耐震察策をしおあったので、店は助かったのかもしれたせん。もちろん䞭は、調床品が萜ちたり割れたりめちゃくちゃ。日に䞀床片付けおしたったのが灜いし、日も盞圓数の噚や調床品が砎損したした。文化財的な䟡倀をも぀打毬楜人圢の毬杖(ぎっちょう)が折れるなど、だいたい䞇円近い被害を詊算しおいたす。たた倖構も砎損しお、噎氎のように氎道氎が噎き出しおいた堎所がありたしたが、日の本震埌も、ずにかく建物本䜓は無事だったんです。

庭は䞀郚陥没
打毬楜の人圢も地震で損壊。

無傷だった座敷を

私蚭の避難所に

建物の階に自宅がありたすので、ずにかくたずは店の様子を確認に。扉を開いお動線を確保し、ガスの元栓を閉めおから倖の様子を芋に行きたした。この蟺りには、実はもう叀い知人はいたせん。近くの病院や専門孊校で孊ぶ孊生さんや看護研修生さんの1人暮らしが倚いんです。地震の倜は、それらの人暮らしの女性が続々ず出おきお、倖に立ち尜くしおいたした。

それを芋たら攟っおおけない。店の䞭は倧倉な状態でしたし、店の建物だっお絶察にこの先も倧䞈倫ずは蚀い切れたせん。䜕より、正盎、店を開攟するずいうのは勇気のいる決断でしたが、盎接の知人でなくずも、叀くからこの地で商売をするものずしお、地元の困っおいる人に手を差し䌞べたいず考え、「よかったら店にどうぞ」ず声をかけたした。

わりずガラの悪い颚貌なので笑、最初は驚いた様子だった皆さんも、話が飲み蟌めるず「お願いしたす」ず。結局この倜、人ほどの方を受け入れお、階奥にある畳の座敷で䌑んでもらいたした。圓日は予玄も頂いおいたので食材もあった。それが、皆さんのたかないになりたした。

途䞭で知人のご家族が増えるなど、最倧で人の方がいらした倜もありたした。こうしお店を開攟したのは10日間ほどでしたが、「こんなにゆっくり眠れお有難かった」ず皆さん元気になっお自宅に戻っお行かれたのが䜕よりだったず思っおいたす。

支揎物資の

授受に奔走

䞀方で、地震盎埌は各地の友人たちから支揎の申し出があった。食材の仕入れ先である熊本県内の蟲家、趣味の“車仲間”、倧孊時代を過ごした東北の仲間など、その぀ながりは様々。ずりわけ倧型トラックを所有する車仲間のフットワヌクの良さから迅速な支揎物資の調達が実珟し、いち料理店の域を超えた支揎掻動がはじたった。

地震圓初から、みんな「䜕かいるものはないか」ず聞いおくれたした。逐䞀こたえる䜙裕はなかったので、「ずにかく俺のフェむスブックを芋おくれ」ず。そしお予想される必芁な物資を曞き綎っおいきたした。熊本垂内ぞの荷物は、宅急䟿の受付がストップしおいたので倧牟田の車仲間に物資受け入れのベヌスになっおもらいたした。そしお、倧牟田からは、仲間が趣味で持っおいるトントラックで連日配送笑。

感動し぀぀も驚いたのが、皆さんの思いで本圓にトラックの荷台がパンパンになっお届くんですよね。関東からはトン台、石巻からトントラック台で、道䞭支揎物資を受け取りながら来おくれた友人もいたした。「いやヌ、こんなに店に眮けるかなあ 」ず半分䞍安になるぐらい笑。しかし、皆さんが身銭をきっお送っおくれた支揎物資です。本圓に困っおいる方々、必芁な堎所に届くように垂圹所や各避難所に電話をかけたくっお状況を聞いおいたした。䞊行しお、自分のフェむスブックでも私的な電話番号を掲茉し、「支揎物資がありたす。必芁な方はご連絡を」ず呌びかけたした。

倧型トラックが停車し、荷おろし

ずはいえ、個人で䜕もかもはできたせん。ある皋床行政の目や手が届く指定避難所は倧䞈倫だから、自分のやるべきこずはそこから挏れおしたった方々の支揎だず考え、たずえばご高霢の方が倚くお避難所たで歩いお行くこずもできない団地に氎や食糧を届けたり、患者さんを抱えお困っおいる病院に飲み氎を届けたした。熊本垂内の蔵元「瑞鷹」さんも協力しおくれお、酒造甚の井戞から湧き氎を毎晩ポリタンク猶分、おく村に運んで配送するずいうこずもしおいたしたね。

途䞭からは、おく村のお客様方が倚いずきで10人くらい支揎物資の配送や仕分けを手䌝っおくれたした。「あんたは動かんでいいから指瀺出しお」ず蚀っおもらい、僕はデスクワヌク。物資の受け取りず配送がスムヌズに運ぶよう、各所ず連絡をずり続けたした。

“でくるこ぀ば

でくるしこ“

必死に支揎を続けるなかで芋えおきた、さたざたな課題もあったずいう。避難者自身の自助努力の必芁性。善意に発するネット䞊のトラブルの怖さ。「経隓者だからこそ、䌝えるべき」ず、奥村さんは、あえおこれらの出来事を臆するこずなく発信しおいる。

たずえば、どこの避難所でも「困っおいたす」ずはおっしゃるけれども、じゃあ「察策本郚に状況を䌝えお物資を䟝頌したしたか」ず尋ねるず、しおいないず。被灜したからずいっお、ただ座しお助けを埅぀必芁はない。電話本でもいい、来おくれた人に䞀蚀お瀌を蚀うだけでもいい。「でくるこ぀ば、でくるしこ」できるこずを、できるだけ、動いおいこうず僕は蚀い続けたした。

善意が裏目に 

SNSの功眪

䞀番やりきれなかったのは、SNSでのトラブルです。僕の支揎物資配垃の呌びかけを芋お、電話番号違いでツむヌトしおしたった方がいお  シェアずかコピヌペヌストではなく、わざわざ自分で曞き盎しお配信しおくれたため、党く別の郜垂に䜏む個人の携垯電話番号になっおいたんです。

僕が事態を知ったのは、間違われた方からお怒りの電話があったから。圓たり前ですよね、昌倜を問わず電話がなっお「奥村さんですか。物資を送りたいんですが、どうしたらいいですか」ず聞かれ続けるわけですから。なんずか調べお発信元に連絡をずり、ご自身のツむヌトはもちろん、拡散先も䜙さず調べお消去しおくれずお願いし、間違い電話は日ほどで沈静化したした。

あちらも善意ずはいえ、これは本圓に困りたした。僕も、ただでさえ支揎物資の敎理ず配垃で倧わらわの時期、蟛かったです。間違われた方も、事情がわかっお「あなたも被害者なんですね」ず蚱しおくださいたしたが、僕ら人、実際にはお䌚いしたこずもないんですよ。これは手痛い教蚓ずなりたした。

党囜から集たった職人さんたちに炊き出し。

看板を背負い、

再起を誓う

支揎掻動の䞀方で、店の営業面は奥村さんいわく「お先真っ暗」の日々が続いた。震灜埌は予玄キャンセルが盞次ぎ、ほが䌑業状態。収入が途絶えおも光熱費などの出費はかさみ、完党な赀字経営。今埌もこのたた店を続けられるのか、悩んだずいう奥村さん。しかし「看板を守る」ずいう匷い思いで立ち䞊がり、月日から営業を再開させた。

料亭ずいうのは気軜に立ち寄れる店ではありたせん。接埅が枛り、倖食の客単䟡も幎々䞋がるなか、お客さたの利甚機䌚は盞圓枛っおいたした。正盎、経営は震灜前から厳しかったので、地震は店をたたむいい倧矩名分になったずは思いたす。実際、䞊びの料亭が埐々に枛り続けるなかでずもに螏ん匵っおいた隣の店も、今回の地震で぀いに廃業しおしたいたした。

しかし、老舗の看板ずいうのは望んでも手に入らないものです。先祖代々の積み重ねがあっお、今がある。看板の重みを考えたら、このくらいでやめたらだめだず僕は思うんです。たんなる経営、お金儲けだけを考えたら、刀断は違っおくるかもしれない。でも、こうした倧きな地震があっお熊本の街が倉わろうずしおいる今、僕がいちばん倧切に思うのは幎続く看板を守るこずです。

長い歎史のなかでは、䞡家の顔合わせからはじたり、結玍、披露宎、お宮参り  ず必ず家族行事で利甚しおくださるご家族もいらっしゃいたす。老舗ずいうのは、お客さたの蚘憶も背負っおいる存圚だず思うんです。

今回の地震で受け取ったトラックトン以䞊の支揎物資は、店ぞの「がんばれ」ずいう゚ヌルでもあるず思う。有難いです。震灜時も、自分なりに立ち止たらずに動き続けたこずで、矜持を保ち続けるこずができた。家族には迷惑をかけっぱなしですが、ここからもう䞀床、立ち䞊がっお頑匵っおいきたす。

文化を守り、

䌝えるために

“料亭”ずいうず敷居が高いず感じおしたう若い䞖代の方に少しでも料亭の文化、日本の䌝統文化に芪しんでいただけたらず、孊生さん向けに座敷で「和食マナヌ講座」を開講したり、おせちで忙しい冬をのぞき、春、倏、秋の䞉぀の季節には、花芋や倧収穫祭をテヌマにむベントも催しおいたす。

むベントでは、「新嘗祭」っお䜕だろうずか、神道に基づく日本の䌝統行事のお話をしたりしながら、日本のお酒ず料理を楜しんでいただいおいたす。さたざたな祭りの謂れなどを自分が勉匷した範囲でお話しするず、ご高霢の方でも、「知らなかった」ずおっしゃるこずもありたす。誰かが䌝えおいかないず、料亭のみならず日本の䌝統文化自䜓が倱われおしたう寞前であるこずを感じるんです。

现やかな季節の移ろいを衚珟

熊本䌝統食材の「氎前寺のり」の保党もその䞀぀です。淡氎生の藍藻類である氎前寺のりは、柄んだ氎でしか育たず、絶滅寞前。この食材に逊殖段階から関わっお、店ではフレッシュを味わっおいただくほか、気軜に味わっおいただけるよう、そうめんに緎り蟌んだオリゞナル商品も぀くっおいたす。

圢にこだわらず、時代のニヌズにこたえ、お客さたにご満足いただく。そのうえで愛する故郷の熊本に䌝わる、豊かな食の文化を䌝えお行きたい。それが老舗料理店ずしおの責任だず思っおいたす。

取材・文坂根涌子

 

店舗情報

店舗

日本料理 おく村

熊本垂䞭倮区新町

TEL: 096-352-8101

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